【歴史文化交流の旅⑮】

蝦夷と大和の攻防の跡〜みちのく(東北)の旅〜

黒歴史文化研究会     代表        鈴木 正次

                  事務局長     戸沢 二郎

    

 秋の気配がようやく深まる今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 昨年は、統一地方選を控え、目黒の駒場地区周りのミニ交流の旅となりました。

 そこで、今年の歴史文化交流の旅は15回記念とし、蝦夷地と大和勢力攻防の跡、「東北」を1泊2日の旅をすることになりました。





蝦夷地攻略の政庁跡、多賀城東北歴史博物館

 かつて東北は、原日本人といわれる縄文人が住み、繁栄(青森の三内丸山遺跡など)していましたが、弥生人を中心に、畿内に大和政権ができると、その支配は未だ東北に及ばず、蝦夷地と呼ばれて、対蝦夷の闘いで支配の拡大が目指されていました。

 現在の仙台近くにあった多賀城は、奈良時代の721年(養老5年)から造営されたとされる、古代陸奥の国の国府で、対蝦夷の軍事の拠点、鎮守府もおかれていました。

 江戸時代、俳人芭蕉が訪れ、多賀城のいわれを説いた多賀城碑文を見て、「泪も落ちるばかり」に感動したとされています。

 近くに、1999年に開館した東北歴史博物館があり、東北地方の歴史や文化を世界に発信する場となっています。





松島 瑞巌寺伊達政宗

 戦国時代から江戸時代にかけての東北の雄伊達氏は、政宗のころ、南東北を制圧しましたが、関ヶ原の闘い以降、青葉城(仙台)に居城を移し、領国経営に力を注ぎました。

 天下の景勝地、松島にある瑞巌寺は、828年、慈覚大師が創建した天台宗寺院でしたが、鎌倉時代中期、臨済宗の寺に変えられ、一遍上人も訪れて、「一遍上人絵伝」にも描かれています。

 江戸時代になると、伊達政宗は、当時の最高の職人・文化人を結集して、寺の再興に精力的に取り組み、1611年に訪れたイスパニア使節スカイノに、「木造建築で世界に並ぶものなし」といわせました。本道と廊下等が国宝に指定されています。

 瑞巌寺は、江戸幕府と対立した場合の反撃の拠点として建てられたとの疑いをもたれた曰く付きでもあります。

 松島湾には、縄文時代の大規模な貝塚が残されてもいます。





平泉〜奥州の覇者、藤原氏の詠歌の跡・中尊寺金色堂 毛越寺 柳の御所跡遺跡

 義経をかくまい、頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏は、蝦夷の末裔と、京から来た、藤原氏がが結ばれたといわれていますが、当時の京や鎌倉に張り合う勢力を築いて、繁栄し、平泉を拠点としました。

 天台宗の東北大本山である中尊寺は、円仁の創建とされるが、藤原氏によって、大々的に整備され、国宝 金色堂には、藤原三代の覇者が眠っています。

 毛越寺は当時、広大な浄土庭園を含む、京にも勝る寺であったが、焼け落ち、現在の建物は後のもので、芭蕉の「夏草や 強者どもの 夢の跡」の句碑があります。

 柳の御所跡は、当時の生活ぶりを知る貴重な品が出土し、発掘調査が続いています。





<日時>

12月1日(土) 午前7時半 中目黒駅前より出発

中目黒→多賀城→松島(瑞泉寺)→宿泊(塩釜)→平泉→東京



<会費>

1万7千円 (バス代・食事代・入場料・資料代等)



<申し込み>

連絡先は戸沢事務所まで

戸沢二郎事務所

住所:〒153-0065 目黒区中町 1−5−10

TEL/FAX:03−3716−7755

メールアドレス:meguro@tozawajiro.net



2007.10/29